来年度入試に向けたラストチャンス!第4回オープンキャンパスお申込受付中!

山陽中学・工業高校 昭和19年4月入学生の軌跡(図書だより)

1945年8月6日午前8時15分。広島に原子爆弾が投下されました。当時山陽工業2年生だった石田英雄氏は府中にある動員先の工場(爆心地より4.2km)で被爆をしました。けれども爆心地近くの雑魚場町(爆心地からおよそ1km:現在の国泰寺あたり)で建物疎開作業をしていた中学1年生達の消息はこの日を最期に途絶えました。戦後75年、多くの手記と証言から分かることは、長い者でおよそ1週間、ほとんどの生徒は被爆後数日のうちに亡くなったということです。

「慟哭の証言/(財)広島県動員学徒犠牲者の会」によると動員学徒の原爆犠牲者を出した学校数は265校、生徒の死亡者数は7,196名で、このうち本校の生徒は486名でした。動員学徒犠牲者の多くは中等学校1年生で、その後「悲劇の中学1年生」と呼ばれました。

教師1年目のクラス写真
昭和25(1950)年の商業科の集合写真に写った生徒はわずか22名でした
前列中央左が石田成夫先生(当時25歳)
前列中央右が石田英雄先生(当時19歳)

******************************

「石田氏の8月6日」をご自身による絵とともにお読みください。

<1945年 山陽工業1年生達のクラス写真>
足元は草履など粗末なものを履いており、
石田氏入学の年と比べて年々、国内の物資が不足している様子が分かります

昭和20(1945)年4月、日本は敗戦に向けてどんどん転り落ちて行くが、勝利を信じ「欲しがりません勝つまでは」を合言葉に中学校に入学した。
服装は上から戦闘帽(野球帽の中高で前に校章を付け、あご紐が付き、色はカーキ色)をかぶり上着の黒いものは小学校のものをそのまま、白いのは兄か誰かのお下がりと思われ、制服とて新品も無く左胸には布に氏名、学校名、血液型を書いて縫いつけ、校章と釦は売店等で陶器製のものを買い求め取り付けた。ズボンは長いものにはゲートルを巻かなければならない。履物はあるものを履かなければどうしようもなく、後輩の1年生には下駄や草履(前列の4人)で登校し、疎開作業現場へ行き、焼かれ吹き飛ばされてそれぞれの所で最期を遂げた。
石田 英雄

8月6日、午前8時15分。B29は矢賀駅上空で原爆投下。爆弾の重みでリバウンドをし、急旋回して逃げ去りました。落下傘には計測器のラジオゾンデがつけられていました。

比治山が航空母艦の様に黒く浮かびあがって見えました。

比治山向こうに巨大な火の玉が浮かび、波のような衝撃波がどんどん大きくなり、自分達の上空にきた途端、大きな力で吹き飛ばされました。

 

目と耳を押さえ、口を開ける姿勢をとりました。

周りは真っ暗になりました。

暗闇が下から徐々に明るくなり、友人が歩いている足が見えました。

きのこ雲の様子。遠くからみると、チリのような小さいものが巻き上げられていくのが見えました。きのこ雲の中には赤い炎のようなものが不気味にゆらゆらと見えました。

市内に向かう途中、煤(すす)をかぶったかのように顔の黒くなった女性に出会いました。ござを被り、恥じらう様に歩く姿からしておそらく20歳前後の女性だったと思います。道の周りにはガラスの破片等が無数に飛び散っていました。

******************************

学校再開の様子です。生徒達はそこで校長先生を含め、1年生のほどんどが引率の先生とともに亡くなったことを知らされました。石田氏は敗戦後の広島で「無気力だが、それでいて爆撃もなく、ひとまず平和で何か開放的な気持ちにもなっていた。」そうです。それは生徒達に共通の感情だったと思います。焼け野原となった広島で途方にくれた中で見つけた貼紙は、若い生徒達の心を再び学園へと向かわせました。

昭和20年8月の原爆、敗戦。こうした悲惨、虚脱の生活に私は山陽学園(旧石田学園)の生徒であること、否、学生であることすら忘れて居た。そうしたある日、私は田舎から向洋へ用事があって出た時のことである。駅前のポストに貼られた“山陽生徒に告ぐ(文面は忘れた)と半紙一枚位に書かれたポスターを見て、山陽生徒であることを思い出した様だった。それからポスターに書かれてあった9月(何日か忘れた)市の東二葉山麓の宮に行ったことは勿論のことである。そこには数人の先生と200人足らずの生徒が集まって居た。私達はそこで校長先生をはじめ多くの先生と先輩後輩が原爆で亡くなったことを聞いた。山陽学園の復興はこゝを第一歩として廿日市・向宇品・宝町を学舎にかえ吾々は共に歩んだ。4階建ての堂々たる校舎をもつ山陽学園復興の姿を見るとき、私はあのポスターを思い出す。
石田 英雄

 

昭和20年8月15日。この日を境に世の中がまさしく変わった。(中略)一億一心、忠君愛国など、勇ましいスローガンが失せ、今度は豊かさを求め一路邁進。ぼく自身、豊かさとやらの恩恵にあずかり、いい加減な明け暮れ。だが食べ物が余り出したあたりで、途端に落ちつかなくなった。高層ビルが立ち並ぶにつれ、世間は戦争を忘れ、空襲や飢えを伝えず、上っ調子な日本。こんな時代が長く続くはずがない。(中略)
この童話、書き出しすべて昭和20年8月15日から始まる。戦争が終わった日ということになっているが、日本人はいつの間にかあの戦争をなかったことのようにしてしまった。戦後というが、今もなお戦争は続いている。戦争は、気がついた時にはすでに始まっているものだ。

戦争童話集~忘れてはイケナイ物語~
「小さい潜水艦に恋をしたでかすぎるクジラの話」 野坂 昭如
(株)世界文化社