1945年8月6日。この日はおよそ8000人の中学生達が「建物疎開作業」を行うために広島市内の中心部に集まっていました。本校の前身である山陽中学校の生徒もこの作業に参加していました。
「建物疎開」というのは焼夷弾による火災の影響範囲を小さくするための建物の取り壊し作業のことで、市内133カ所(約8000坪)で実施されました。8月6日には市内のうち、「鶴見橋付近」、「天神、材木町付近(平和公園)」、「八丁堀付近」、「土橋付近」、「雑魚場付近」、「県庁付近」、「皆実町電信隊付近」、その他で建物疎開が行われていました。
8時15分。原爆はこれら中学生達の頭上で炸裂しました。
被爆から77年が経過した今も、「雑魚場町」に動員された本校1年生達の最期を知る手がかりは数件しか見つかっていません。同窓生の石田さんらと探し続けた彼らの消息、これらの資料から分かることは8月6日、雑魚場町で作業をしていた本校の生徒達はそのほとんどが数日のうちに、遅くとも数か月のうちに全員が亡くなったという事です。
掲載の写真は雑魚場町で亡くなった本校生徒達の入学時のクラス写真です。彼らは小学校を卒業したばかりの顔に幼さが残る子ども達でした。
~西亀先生は生徒達から「ドンガメ先生」とよばれていました~
滝川先生はこの日の建物疎開作業には参加しておらず、千田町の自宅で被爆、御幸橋のたもとから手漕ぎの船で負傷した生徒達を運びました。
1947年に広島市長に就任した浜井信三氏は「人を殺傷し、都市を破壊するために科学の成果を利用することがあってはならない、人類の過ちを再び繰り返してはならない、死者に対する責任は人類ひとりひとりが負っていかなければならない。」という思いを込めて原爆ドームを残しました。
広島平和都市記念碑に書かれた「過ちは繰り返しませぬから」という言葉は「われわれ自身がそういうことをくり返さないということばかりでなく、自分達以外のどんな人間にも、そうさせないよう努力することをも意味している。」と付け加えました。未来とはこんにちの私達であり、これからの私達の事です。
8月6日、建物疎開作業の被害の様子がNHKスペシャルで放送されます。
「原爆が奪った“未来”~中学生8千人・生と死の記録~」
是非、ご覧ください。
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/J66Q3Q1YZY/